MENU

自己犠牲の強制は終わりにしよう

 いきなりタイトルと真逆のことを述べる。自分の周りには特筆すべき自己犠牲を示している人が何人かいた。長年独身を貫き、全時間奉仕と言って月に70時間以上を布教活動に費やす人、引きこもりの子ども、病弱の妻を介護しながら熱心にプログラムを果たし、地域のJWを監督していた人、ご主人の強烈な反対に耐えながら集会に出席している人など例を挙げれば枚挙にいとまがない。

 彼あるいは彼女たちがそこまでするのはなぜだろうか。それは神を愛し、神を喜ばせたいと思っているからに他ならない。そして、上記に挙げた人たちが決して嫌々ながらそれをおこなっている訳でないことは態度や言動から窺い知ることもできた。

 さて、ここからが本題で、上記の人たちは自ら喜んで自己犠牲的な生き方をおこなっている訳だが、もし、仮に自己犠牲が強制されるならそれに意味はあるのだろうか。おそらく、この問題はクリスチャン家庭で育つ子どもにとって陥りがちな問題と思われる。最初は、喜んで集会に行っていたのが段々と行きたくなくなり、しかもそれを親に言い出しづらいというケースもある。自ら進んで行う自己犠牲には喜びが伴うかもしれないが、嫌々行う自己犠牲から喜びを得ることは難しいだろう。

 というわけで、おそらくほとんどいないと思うが、こんな不真面目なブログを読んでいるJWの親の皆さん、体裁や外面で子どもに強制させるのは終わりにすることを強くお勧めする。強制される犠牲では喜びは得られないのだから。